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Naomi Takagaki Web Site.

  • '15.6.28 - blog

音を活かしイキル。

とっても久しぶりのblog(汗)
別に、どっか遠い所に行ってた訳ではないけれど・・・

私は少人数ではありますが、小さな弟子に音楽を教え伝えたり、高齢者及び障害の方への音楽療法プログラム、ミュージックセラピーの仕事をしている。
他にもPVの音楽作曲や、人前で歌を歌っているわけだけど、ふと考えるとどの仕事も同じ根っこ、価値観、同じ円と縁の中で音楽をさせて頂いている感覚がある。

弟子に音楽を伝えることや、特にセラピーで音楽療法をすることは、一方通行ではなく双方のやり取りの中から、響き合う音を探してゆく作業になる。それは時に風がふわっと吹けば、葉っぱやカーテンがが自然と揺れるような事であったり、時に雨や雷のような衝撃を与えて、そのあと・・・琴線に触れてぬかるみにはまる事?でも逆に、水たまりをジャンプして虹を見上げられるような、力がわき起こったりするものでもある。

音楽療法の起源はふるくて、旧約聖書のサムエル記には「神からの悪い霊がサウルに望むたびに、ダビデは竪琴を手にとってひき、サウルは元気を回復して良くなり、悪い霊は彼から離れた」という一説があって、サウルの状態を機敏に見てダビデが適切な音楽を即興で奏でて治療したという。これはもしかしてものすごい名人芸、特殊能力で、、だれでも出来る?というものではないと思う。

つい最近、Appleがストリーミングというサービスを始めたというニュース。
ストリーミングは便利な一方、音楽、録音物が権威も権利も失うという危機・・・?ん?果たしてそうなのか?必ずしもそうではないと思う。

口は悪いが、陳腐で安っぽい音楽が充満する世の中になったのは、なるべくしてなったのであって、ストリーミングでもっと音楽が氾濫し
音楽が日常において、その意味や価値が薄くなればなるほど、音楽そのものが本当に必要な所もとの形に戻っていくチャンスではないか。演奏、音楽家、アーティストが磨かれるチャンスではないかと私には思えるのだ。

音楽がイージーに流れる今、誰が演奏しても誰が歌っても
同じような価値になった今こそ、音楽が心の中心、唯一無二になるのは
この音楽療法のようなセッションの形であったりライブであったり、ダビデの即興演奏のような、柔軟でそれでいて名人芸のような人から紡ぎだされる音楽。

もしその演奏や音楽を聞いて誰かが”癒される”癒された”元気になったとあれば、それこそが、音楽の本来あるべき姿なのでは?とさえ思えるのだ。

録音物、CDやDVD、それらは自らキチンと権利を主張しない限り
ますます難しくなってくると思う。

私がやるべき事、私がイキル、自らの音楽を活かし自分が生かされていく場所・・・
これからも続くであろう長い道を、しっかり見失わず歩いていきたいと思う。

 

 

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